John Dowland ジョン・ダウランド (1563-1626) |
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ダウランドのリュート歌曲各巻のタイトルおよび全曲名はこちらから
第1巻 | 第2巻 | 第3巻 | 巡礼の慰め |
ダウランドのリュート歌曲の楽譜はリュートを伴ったソロでも4声のアンサンブルでも演奏できるように印刷されています。アルト、テナー、バスの譜面はそれぞれ三方に向いていて、楽譜をテーブルの中央に置いて、四方から覗き込んで演奏できるようになっています。 譜例 Come ye heavy states of night (The Second booke of Songs or Ayres) |
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16世紀のイギリスチューダー朝の時代は、音楽の黄金時代だった。John
Taverner, Thomas Tallis, Anthony Holborne,Thomas
Morley, Orland Gibbons などの多くの音楽家を生み出したが、特筆すべき二人はWilliam Byrd とJohn Dowland であろう。 |
William Byrd William Byrd は器楽音楽の分野、特に鍵盤楽器で多くの優れた作品を残した。宗教のためではなく、あるいは踊りの伴奏のためでもなく、純粋に鍵盤のための音楽としての分野を確立したといっても過言ではないと思う。この人の鍵盤音楽を聴いて、これがバッハより150年も前というのは驚きを感じる。 |
John Dowland John Dowland のリュート歌曲にはどれも独特の憂愁が感じられる。しかし、その憂愁は絶望的なものでなく、むしろその憂愁の中に自分を置いて楽しんでいるような面がある。 彼の音楽はルネッサンス的ではあるが、神話の世界や、理想化された田園風景を歌ったものではなく、人の心を表現している。 ダウランドがリュート歌曲集を出版した頃は、イタリアでは既にバロックの時代が始まっており、オペラも作られ始めていた。ダウランドはイタリアのその様な変化を自分の音楽に取り入れようとした傾向は、特に第4巻にあたる「巡礼の慰め」にみられる。例えば「Tell me, true Love」などは言葉を「語る」モノディー様式の曲である。他にも実際に衣装を着け、振りを付けて歌われたと思われるような、オペラ的な作品もある。 しかし、彼はバロックの作曲家にならなかった。作りたくなかったかもしれない、あるいはイタリアの先進的な音楽と比べ、自分は時代遅れと感じたのだろうか?「巡礼の慰め」を出版した年以降、殆ど作品を発表していない。その後14年も生きたのに。 その1612年、彼は念願のイギリス王室付きのリュート奏者になることができた。しかし、憧れのエリザベス女王は既に亡く、時はジェームス1世の時代であった。安定した生活が彼の創作意欲を失わせたのだろうか? ダウランドのリュート歌曲は歌曲を独立した音楽分野として確立したものと、わたしは高く評価したい。 |